整体について考える

整体は日本国内において、法制化されていない分野です。しかしながら、その効果を実感している人も多くいるはずです。ここでは、整体師が何を行っているのかをご紹介して、整体を受けたことがない人にも身近に感じて頂けるようにご説明してゆきます。

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整体について

 整体には、様々な手法があります。その為、統一的見解を示すのも不可能に等しいことです。しかし、体の健康を目指すという視点まで視野を広げれば、どの整体の手法でも目的は合致します。ここの項目ではまず、健康という極めて広い分野の定義から話を堀下げて行きたいと思います。

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健康という広い価値

 何だか初めから大きな話で、とても難しい題材に聞こえるかも知れませんが、国や人種が変われば、その価値や概念も変わります。我々日本人は、国民皆保険制度の恩恵を受けていますから、何か体の不調があれば、病院に行って医師の診断を受けることが習慣化しています。ですから、「体の不都合は病院が治してくれる」という固定概念がとても強い国民性でもあります。下図は、我が国の国民皆保険制度のあらましです。実際に皆保険が始まったのは1961年からです。

日本の国民皆保険制度の歴史

大正
   1922年(旧)健康保険法
昭和
   1938年(旧)国民健康保険法
   1958年 国民健康保険法の制定
   1961年 国民皆保険の実現
   1973年 70歳以上の医療費が無料に(自己負担ゼロ)
   1983年 老人保健法の施行
   1984年 職域保険(被用者保険)本人の自己負担1割
平成
   1997年 同自己負担2割
   2003年 同自己負担3割
   2008年 後期高齢者医療制度始まる
   2015年 医療保険制度改革法が成立(国民健康保険への財政支援の拡充、入院時の食事代の段階的引き上げ、紹介状なしの大病院受診時の定額負担の導入などが盛り込まれた)
   2018年 国民健康保険の財政運営が、市町村から都道府県単位に変更

 

*土田武史「季刊・社会保障研究」Vol.47 No.3「国民皆保険50年の軌跡」参照

 

 このことから、医師が病気ではないと診断した場合、「無意識にそれは健康な体である」と考えられがちですが、果たしてそう一概に断じてしまって良いものでしょうか?極論ですが、医師は病気を見つけそれを治療するのが仕事であって、健康を保障する仕事ではありません。ですから、早期発見、早期治療という表現を使うのです。であれば、「病気ではない(医師の診断)=健康」と考えるのは、単に受診をした本人の印象的なものでしかないということになります。医師は、健康の診断権を有しているのではなく、病気を診断し、治療をする権利を有しているのです。

体に不調があって病院へ行き、医師が病気ではないと診断した場合、つまりはそれが健康であるという考えかたに陥ります。しかし、本来の健康は誰かに診断してもらうものではなく、誰かによってもたらされるものでもありません。

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健康は肉体だけでは計れない

 なぜ我々が「医師に健康を保障されないのに委ねてしまったのか」という本質に迫ります。医師は、西洋医学を主に、保険範囲の診断とその治療を行います(保険外も昨今あります)。しかしながら、これは肉体と一部の精神疾患に該当するものだけです。ここで世界保健機構(W.H.O.)が示す健康の定義をご紹介しておきます。下は、平成11年3月に我が国の厚生労働省が資料として提供された抜粋です。

 

従来、WHO(世界保健機関)はその憲章前文のなかで、「健康」を「完全な肉体的、精神的及び社会的福祉の状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない。」
"Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity."と定義してきた。(昭和26年官報掲載の訳)
 平成10年のWHO執行理事会(総会の下部機関)において、WHO憲章全体の見直し作業の中で、「健康」の定義を「完全な肉体的(physical)、精神的(mental)、Spiritual及び社会的(social)福祉のDynamicな状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない。」"Health is a dynamic state of complete physical, mental, spiritual and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity."と改める(下線部追加)ことが議論された。最終的に投票となり、その結果、賛成22、反対0、棄権8で総会の議題とすることが採択された。
 本件は平成11年5月のWHO総会で議論される予定。総会では参加国の2/3以上の賛成があれば採択される。ただし、改正の発効には全加盟国の2/3以上における批准手続きが必要であるが、通常は2/3の批准を得るために数年以上の期間を要している。

 この様に、「健康」という言葉の指すものは、決して肉体の健康についての限局ではありません。特に、Spiritualという文言を含めることが、賛成多数という結果になっているのです。このことから、これまで我々がある意味常識的に捉えてきた、「健康=医師の診断で肉体に病気がないこと」ではないということが分かります。

 


健康という概念は世界中で議論されていますが、W.H.O.の多数決ではSpiritualを含んだ、肉体以外もそれと同等に健康の尺度として用いるというのが統一認識です。従って、医療が健康を担うというのは「一端を担う」の間違えであり、ここから分かる様に、我々日本人に欠けているのは、総合的な健康観であるといえます。

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病気ではなくても病気

 歴史的みれば、医学の発展は近年におけるものであって、古代ギリシャ時代からの急速的な科学的事実の発展に等しい。それは、メトンやピタゴラスという存在で分かるように、より学問的な社会へと方向転換した時代です。
 それ以前はどの様なものが医術であったのかというと、神官が宗教的に行っていたり、魔術を用いたりしていました。結局のところ、医学はこれらの医術から発生していて、科学的部分のみ医学又は医療として今日に至っています。


医学とは、そもそもが祈りや霊的儀式から派生し、地域や国の風土に沿った形で歴史的に発展を遂げています。例えば、インドは今でもアーユルヴェーダ(聖典)を現代医学と分離せずに共存させています。また、中国では中医学を基に、漢方なども現代医学と遜色なく並行的に残しています。共通する部分は、文明に沿って発展したということです。文明ある所に医学あり。

 そして、医学が目指したものは、「病気を無くせば健康になる」という理想でした。ところが、まさに現在、この大儀が大きな方向転換を向かえる時代に差し掛かりました。病気が仮になかったとしても、それが健康とはイコールで結びつかないということに気が付き始めたのです。
 例えば、現代人において、どれだけ永く生きたとしても、それが充実度(幸福度)とは必ずしも比例しません。健康というのは、肉体以外の精神や社会的福祉において、ダイナミックな状態であることです。人によっては、肉体的な病に苛まれても、他の部分(精神/社会的福祉)がダイナミックに活動されているかたも多々おります。一方で、肉体的に何ら疾患がなくても、思い悩み、生きている実感がない人も少なからずいます。参考までに、この日本において、自ら命を経つ選択をされる方は、先進国主要7カ国(G7)の中でもトップです。


少し乱暴な表現ですが、最高の医療(肉体的)を受けたとしても、それが健康=病気が無いということではないのです。レントゲンや血液検査などの数値では、健康成分を検出することはできません。

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否定形の健康

 現代の諸外国では、健康という言葉を調べると、「病気ではない(Disease)」と意味になります。この語源は古来のフランス語由来であるという説が有力だそうです。何故否定形でしか表現できないのかというと、医学とは病気を治すことを目的としているため、健康の基準が病気がないことの反対であるという概念でしか議論して来なかったからです。一方で、医学が科学的ではなかった時代というものは、この逆であり、病気とは「健康ではない」状態と認識していました。その差は、一体なんなのか?と、私も調べてみましたが、先述した、医学が科学的に派生する前の段階にヒントがあると思われます。文明のあるところには、必ず医学が存在しますが、科学的ではなかった時代には、体に異常があった場合、例えば、永く生きる人から助言を貰ったり、薬草と称す草をすりつぶして服用したり、又は沐浴や運動の様なことをしていたところもあります。また、自分が信じる神に祈ったり、霊術師に憑依したものを取り払ってもらうこともありました。これは殆どの部分で、精神への働きかけであったといえるでしょう。今では考え難い治療ではありましたが、驚くことに、人々の幸福度は現代よりも高く生きていた傾向にあります。
 例えば、古代ギリシャでは、幸せになりたいという概念がなく、満足感を得ることが生活の目的であったといわれています。これを身体的に置き換えると、苦痛なく生きられることにも置き換えられます。この考え方は、現代でしきりに意識されるようになっています。例えば、健康寿命という言葉もその一つです。ですから、歴史を遡れば、医学が科学主義に没頭する分岐点でもある、古代ギリシャ時代が最も現代の求める肉体と精神と社会福祉的ダイナミックさのバランスが取れた考え方だったのかも知れません。